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おとうちゃん

2008/07/29
小さい頃から、「おとうちゃん」と呼んでいる。
私の大好きな父。

破天荒な人だった。
10年の間に家を都合3件買っている。
1件目は博打でなくなり、2件目は仕事場からあまりに遠くて3年でやめ、
3件目は5年前に私が売った。

父は5年前に、胃がんの手術をしてから様子がおかしくなり、
うつ病を発症、その後ウィルニッケ脳症という病気になり、
結果、新しい記憶がまったく入らない状態になった。
どうも10年ほど前の時点で記憶が途絶えたようだった。

母と二人での生活には無理があったため、当時の家を(私が)売り、
看護婦をしている姉夫婦の家へと移った。
リハビリをしてなんとか自分で歩行できるようになり、
トイレは自力でしてくれる。

ただ、記憶が入らないので、ご飯を食べたことも忘れる。
今いる家がどこなのかも、説明した5分後に忘れる。
一緒に住む孫や姉の旦那さんには、毎日「はじめまして」と、新鮮な出会いを繰り返す毎日だった。

でも、母と姉と私のことだけはちゃんと認識できていた。

昨年、以前からキャリアだったC型肝炎が発病。

そして3日前、腸閉塞を起こし、肺炎と脳からの出血もみられる状態になり、一時意識不明に。
幸い姉がいた時間だったので、すぐに対処し、救急車で病院へいったそうだ。そして入院。

管という管を勝手に自分で抜いてしまうので、
点滴している手は血だらけになり、
鼻からいれている管も日に3~4回入れなおす状態なんだそう。
24時間付き添いが必要ということで、
私も明日から父のいる岡山県へ行くことにした。

子供たちは旦那が夏休みをとってくれたので、おまかせすることに。
5日間、看病してきます。

小さい頃から大好きだったおとうちゃん。
晩年の姿から、いろんなことを考える。

到底「生きている」とは言えない状態に、何の意味があるのだろうか。
どうして父は死ねないのだろうか。
いや、この期間は、父が私たち家族に最後にくれた大事なプレゼントなのではないだろうか。
・・・・・・

管がいやなんだろうな。
本当にいやだから無意識にぬいちゃうんだろうな。

もう、はずしてあげたいな、、、、。それが何を意味するのかわかってはいるけれど。

そのときがきているのであれば、スムーズに肉体を離れて幸せなスピリットへと戻ってもらいたいなと
思う私。

意外と落ち着いて状況を捉えている自分に、少し驚きつつ、
これもスピリチュアリズムを探求し、
死というものへの恐怖感がかなりやわらいでいるからかなと感じつつ。

ただ、ふとした瞬間に父への思いがあふれでて、どうしようもなく涙が流れること数回。


お父ちゃん、ありがとう。
明日いくからね。
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21:33 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0)

生きた行動に

2008/07/16
桶川の夏は、暑い。。。今日は夏祭り。夕方から子供とフィーバーしてきます。

さてその前に・・・今日は、マザーテレサの本からあるフレーズをご紹介します。
「生命あるすべてのものに」(講談社現代新書)

この本は、過去に行われたマザーテレサの来日講演をまとめたものです。
東京をみたマザーテレサは「富む国で人は愛に飢える」とおっしゃいました。

飢えというのはただ一切れのパンゆえではなく、愛に飢えているのです。裸とはただ一枚も衣服がないゆえではなく、人間の威厳や尊厳を失っているということです。
家なしとは、ただレンガづくりの家がないゆえではなく、拒絶され、受け入れられず、愛されないことなのです。ひとり家に閉じこもり孤独な生活をし、望まれず、恐怖におびえ、さびしく暮らしている人・・・これが今日の家なしと呼ばれる人々です」


身近にいる「飢えた人々」に何ができるかな。と考えました。
そしたらマザーテレサは

「平和、愛する喜びなどをあなたから学ぶことができるように、あなたがどういうふうに愛しているか、どういうふうに奉仕しているか、どういうふうに生命を大切にしてるかということを、他の人々が見て、そこから神を知ることができるように、身をもって証していかなければなりません。

私たちは神に対する愛を、
それは私たちの中にあるものですが、
神が私たちを愛してくださる その愛を、生きた行動に移しましょう」


とおっしゃっています。

「神の愛を生きた行動に移す」

それはまさに「奇蹟のコース」の内容にもヒットするもので。
そうありたいなと、思う。

おっとまてよ!
バシャールがいたなら「ありたいなと思うんですか?今はどうなんですか?今この瞬間からそうあることは出来ないのですか?」とつっこまれそうだ。

奇しくも、マザーテレサと数秘術ではまったく同じ数字を持つ私。
深く静かに感動し、考えた一冊です。
14:29 ブックレビュー | コメント(0) | トラックバック(0)

課題に取り組み中

2008/07/04
小2の娘の担任の先生。
それが、今の私の心を占める存在だ。
50台のベテランおばちゃん先生。しかし、クラスは学級崩壊と呼びたくなるほどの騒がしさで、
親御さんからのクレームが校長先生へいくなど、よからぬ状態が4月から続いていた。

うちの娘なんて、学校公開日に行ってみると、いきなり、後ろ向きに座っていた。
黒板とか、授業の内容とか・・・まったく興味がないご様子。

先日の授業参観では、ひたすら口にくわえたえんぴつを手の中にピュッととばす練習をしていた。
・・・・・・。

ある意味、勇気ある。正直だ。

その先生を囲んでの懇談会は、校長先生教頭先生が見守る中、
お母さんたちへの謝罪から始った。

うるさい子供たちを静めようと、授業中笛をふいたことに対して「動物の調教じゃないんだから」というご意見をいただきました。すみませんでした。もうしわけありません。

騒ぐ生徒の頭をもって壁にごつんとやりました。すみませんでした。もうしません。

・・・などなど。

さて、私はこの担任の先生に対してどうすればいいのか、この1ヶ月ほどずっと考えてきた。
「ホ・オポノポノ」も実践中。

ハワイの先住民の問題解決方を現代の癒しのテクニックにした「ホ・オポノポノ」。

自分の人生に現れる現象はすべて自分の中を映した鏡である。
だから、その現象を生んだであろう自分の心の中を見つめなおしつつ、
相手に(といっても大きな意味でひとつなので、分離した対象としてではなく、ひとつであるという前提のもと、自分の内なる存在に)

・愛しています、ごめんなさい、許してください、ありがとう。

と、何度も何度も繰り返す。

先生は、うるさく騒いで自分の授業を妨害する生徒に、怒りを覚えていらっしゃる状態。
私はそんな先生に対して「もっとゆったりと、ただ子供を愛してもらいたい」と懇談会でコメントした。

それは、つまり、自分に言っている言葉なんだなと、後で気がついた。
私の「ありのままをうけいれる」ことができない部分が、まだまだ根強く残っていると感じる。
自分自身を。その鏡である子供を。

そしてまた先生にいった言葉がつまりは「あなたはうまく生徒を愛せていませんよ」という強烈な批判をこめたメッセージになってしまっていること、そうなることはもうわかっていたから言わないでおこうと思っていたのに、なぜか懇談会でそんな発言をしてしまったことをすんごく反省している。

ごめんなさい。先生。
影をしょってくださって、そして、その姿をみせてくださってありがとう。
許してください。
あなたのことが大切です。

自分に。
自分の内なる存在に。
ごめんなさい。ありがとう。許してください。あなたが大切です。

それにしても、、、、
人を傷つけずに、批判しないで、ただ受け入れて愛して、光の存在としてみるというエレメンタルをくっつけていくという作業、頭じゃわかってるんだけど、日常生活で応用きかすのって、ムヅカシイなぁ・・・。
15:53 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0)
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